November 10, 2010

沖縄千秋楽

きょうも晴天。普天間基地が一望できる嘉数高台公園へ。
ここは沖縄戦の激戦地、トーチカが当時をしのばせる。
展望台からは普天間基地が一望できる。街の真ん中にある基地。火事のとき、突っ切ることができないので、市内に消防署が数カ所あるという不合理さ。
突然爆音が聞こえ、思わず空を見上げたがなにも飛んでいない。すると遠方にジェット機の姿が小さく見えた。なんと思わず耳をふさいだ爆音は嘉手納基地からとびたったジェット機の音だった。
爆音の度に授業をストップする小中学校、沖縄はまだ戦争中だ。



佐喜眞美術館で丸木位里さん、俊さんの「沖縄戦の図」の迫力に息をのむ。屋上からは隣接する普天間基地の滑走路が見えた。佐喜眞家の亀甲墓の立派なこと。
戦時中は墓に逃れて助かった人もいたが、逆にお墓をトーチカと間違えられて攻撃を受けなくなった人たちもいたとみなもとさん。
彼女のお母さんは21歳のとき、家族親族みな手榴弾で自決、彼女は夜中に意識を取り戻し、波の音が聞こえる崖へ這って行って身を投げた。大けがをし、気がついたら捕虜となっていたという。
80代の今でも体中に米粒のような手榴弾の破片が沢山残っているそうだ。「あの時、母が死んでいたら私もいなかった」とみなもとさん。そして私は彼女と出会うこともなかった。
大激戦で4人に一人がなくなった沖縄は、いまだに基地という戦時を生きている。沖縄から日本が見えるとは有名な言葉。私にもやまとがはっきり見えたような気がする沖縄3日間だった。これもみなもとさんという案内者のお陰。今度はもっとたっぷり滞在して沖縄中を歩きたい。


沖縄中日

いい天気、まずは沖縄国際大学へ。ジェット機が激突した校舎は一部だけ残されて取り壊されていた。ジェット燃料で焼けた木が当時をしのばせる。
みなもとさんの友人、元高校教師の宜野座映子さんのコーディネートで、宮森小学校の元教師の豊濱光輝さんの話を聞きに行く。
豊濱さんは51年前ジェット機が墜落して、民間人6人と小学生11人が犠牲になった「石川・宮森小学校ジェット機墜落事故の証言集に昨年から取りかかっている。「事故を語ることができる迄50年の歳月が必要だった」
25歳の国語の教師だった彼は長いこと遺族恐怖症だったという。「1300人の生徒がいるのになぜうちの子が」「先生が生きていてなぜ子どもが死んだ」…。約2時間に及ぶ取材では涙なしには聞けない貴重な記憶の数々だった。
豊濱さんは宮森小までご案内してくれ当時の小学校の様子など、解説をしてくれた。「今、なぜ宮森?と聞かれるが、宮森じゃない、問題なのは米軍ジェット機墜落事故なのだ」。


この言葉を夜の「哀しみの母子像」公演で紹介させてもらう。宮森小も横浜緑区ジェット機墜落も、世界中で基地がある為に事故でなくなった人々へ思いを馳せて聞いて下さいと。佐高信さんも一番前で聞いて下さった。この講談は佐高さんに土支田さんを紹介してもらってできた作品、きっかけを作ってくれたご本人がはじめて聞いてくれた。「鬼の目にも涙」とは対談のはじめの佐高さんの言葉。伊波予定候補者の力強い挨拶、今沖縄はいや日本は正念場にさしかかっている予感。