May 18, 2012

仮設住宅で

12日いわき市中央台の仮設住宅へ。
6畳2間に台所、洗面所、佐藤さん宅の仮設住宅に集合してくれたお仲間もふくめ7人。お赤飯やおにがし、蕗の煮ものなど昼食を準備していてくれた。美味しくいただきながら世間話?のような雰囲気でお話を聞くことができた。
みなさん楢葉町の方で楢葉町民が住む仮設はここでは200戸、他に広野町の人たちの仮設もある。この木造住宅はちょっとした山小屋風でロフトがついていて寝ることもできる。プレハブの仮設に住む人からは同じ広さでも天井が高いから開放的、木造の方が良かったとの声も。いずれも防音は問題。隣のトイレットペーパーのカラカラ音が聞こえると言う。若い婿さんが同居のばっぱ(姑)に「ばあちゃんは何歳まで生きるんだ」と聞いたとか(笑)
楢葉の民数は7800人、うち津波犠牲者は11人。4月に警戒区域解除となったが、戻りますかと聞くと全員「いや〜戻れない」と。線量は1、2から2、8ぐらいあるという。たとえ戻っても仕事はないし、病院もないし、買い物も不便で魚もとれないし、野菜や米も不安とくれば、たしかに、もどれと言う方がおかしいというものだ。特に若い人たちはもう戻れない、ときっぱり言っているそうだ。

当時の様子を昨日のことのように話してくれた。3月11日3時36分津波がきて、東電関係者たちは4時半頃には原発が危ないと知る、そして、11日の夜には栃木や茨城ナンバーのバスが東電社員を逃がすために集まり、逃がした。まるで「関東軍」のようだ。
住民はどうか。3月12日朝8時に放送された防災無線は「南に逃げなさい」というだけでその理由については一言もなし。訳も分からずとりあえず「2、3日でいいべ」と勝手に決めて、着の身着のまま避難したそうだ。私が「原発事故」と思わなかったのかと聞くと、まったく思いもよらなかったと。これは意外だった、私などはここ20年ぐらい地震の度に心配したものだが…。その後の苦労は大変だったそうで、皆さん体育館や親戚を頼ったりと平均5〜7回避難所を経て昨年7月にこちらへ入居された。
避難所にもあたりはずれがあったそうで、食事が良すぎて8キロも太ったという人もいた。揚げ物が多く昼食は丼もの、作ってくれた人に悪いからと残さずいただいた結果だそうだ。また千葉に避難した方は、いわきナンバーの車をみて小さい子たちが逃げ出したとも。この避難から得た教訓としてある方がきっぱりと「常に下着も服もいい物を着ること。お金は多めに持っていること」。



楢葉町へは許可証がないと入れない。6月には一時帰宅に同行させてもらうことになった。
短い時間だったが、みなさんの実感を聞くことができた、そして今は笑って話しているが、この仮設住宅に辿り着くまでどれほど涙を流したことか容易に想像がつく。愛犬を保健所に送らざるを得なかった方の心境、数年かけて日本中からいい材木を集めて造った屋敷をあきらめきれない無念。それでも、いわきの人たちと補償金暮らしの彼らの間には溝ができつつあり、深刻さを増している、これはいわきのみならず福島県内を覆っている暗雲。
敵を間違えてはいけない。「政府も東電も事故の責任をとって止めた人は一人もいない」事をわすれてはならないのです。