June 10, 2015

父の旅立ち

 父江尻恭平は今月2日早朝に亡くなりました。
享年88歳。膵臓がんでした。年に不足はありませんがやはり一日でも長生きして欲しかったです。私の仕事を見守るかのように、5月31日のNPOの年一度の総会まで生きててくれ、明日からの四国ツアーの前の週末に葬儀と、まるで私の都合を図ってくれたかのように父は旅立ちました。
父はたびたび私の本に登場してます。拙著「花も嵐も語ります」の中「チェルノブイリ原発事故の後、『福島の原発で事故がおきたらどうするの?』と言う私の問いかけにしばし腕組みをしていた父、『その日の風向きしだいだっぺな〜』」の父です。
昨年出版した「311後を生き抜く語口を持て」では「福島で原発事故が起きてしまった直後『お前や佐藤栄佐久さんの言った通りになった。皆、しまったと思っているのだから大きな顔してはダメだぞ』と私を諭した、父です。

 2日に帰って葬儀の準備、驚いたのは通常なら葬祭場は比較的空いている時期と思いましたが、仮設住宅で亡くなる方も多く、どこも順番待ち。は4日間待ち6日通夜、7日告別式、天気もよく無事に見送る事ができました。
家族を代表して私が「お別れのことば」をまかされ弔問客の接待を家族に頼み、お通夜の前日に近所の公園の駐車場の車の中で原稿書き。書いている途中、これまでこらえていたものがこみ上げて顔中ぐちゃぐちゃ。
その「お別れの言葉」、よろしければ聞いてください。

「お父さん、どうしてそんなに急いで黄泉の国へ旅立たれたのですか?
今年1月に母が入院したときは一ヶ月間毎日お見舞いに行き、退院後は自分が面倒みるからといってたのに。
4月に体調を崩して検査入院、わずか一ヶ月半後に亡くなってしまうなんて、残されたものたちは狐につままれたような気持ちですよ。
この4日間、家でやすらかに横たわるおとうさんに、母が「じいちゃんがそこにいるのにしゃべってくれない。じいちゃんともうお話しできない」と小声でつぶやいてます。私たちこどもや、都会からかけつけた孫たちも、大好きなおじいちゃんが亡くなったなんてまだ現実のこととは思えなくて戸惑っています。
私がお父さんに最後にあったのは5月29日。「また来るからね」と手を握ったら「おお」と手を握り返してくれたのが最後となってしまいましたね。急変したら電話してと弟に頼んだものの、弟が病院から呼び出されたのは2日の深夜12時半、朝には眠るように息をしなくなったお父さん。実家へかえるたびに、明るく朗らかな声で「おおきたか」と出迎えてくれたあの笑顔にもうあえないなんて、大好きなお酒を一緒に酌み貸さすことができないなんて、寂しすぎます。
兄弟4人の中で一番心配や迷惑をかけた私、もっともっとお見舞いにいきたかったし、お話ししたかったし、せめて介護させてほしかった。
子供の頃からの思い出が走馬灯のように思い出されます。
お父さんは昔っから農作業が大好きで、私たちもついていっては土と戯れていました。それはそれは楽しそうに歌を歌いながら鍬をふるっていたお父さん、歌は「泣くな小鳩よ〜」がお気にいりでしたね。
おとうさんはこどもや動物が大好きでした。私が5歳ぐらいのとき、飼っていた子犬が肥だめにおちておぼれかけたことがありました、お父さんは太ももまで届く長靴をはき、中に入って肥柄杓で子犬をすくいあげ井戸水できれいに洗ってくれ「これで大丈夫だ」とにっこり。幼い頃の一番の思い出です。
また、弟広志が4歳のころ、家の前で当時の三輪車、ダットサンと接触したことがありましたね、私が事故を知らせたとたん、道路にむかって走っていったあの顔色は今もまぶたに焼き付いてます。瞬間に血のけが引き、真っ白になったからです。こどもこころに顔色が変わるってこういうことなんだと驚いたものでした。こどもたちを命がけでまもり育ててくれました。
長じて私の結婚生活がうまくいかなくなったときは「大きな家に嫁いでも小さくなっていたんじゃつまんないぞ。自分のやりたいことをやれ」と背中を押してくれましたね。思い切って幼い娘たちといわきへもどったのは今から20年前のこと。講談を覚えるために人前で語りたいと押し掛け、ふたりに何度聞いてもらったことか。忙しくても気持ちよく仕事の手を休めて聞いてくれましたね。つっかえても「うまい面白い」と目をほそめてくれそれがどれほど励みになったか。
その後子どもの進学で東京へ移るまでの9年間、私は県内各地、仕事で呼んでいただき、県民の皆様の優しさにふれ、福島のよさを再発見することができたのです。今、ふるさとは原発震災により難儀していますが、NPOを立ち上げたり講談を作ったりして福島支援の活動をさせてもらっているのも、あの時のお父さんの後押しのおかげです。
そういえば震災後、水道が止まり一ヶ月間お風呂に入れなくなったとき見舞いの電話をしたら「おれらは戦争体験してっから風呂ぐらい入れなくても何でもねえ」と逆にはげまされましたっけ。余震で首都圏が揺れたときは電話をくれて「大丈夫か」「そっちこそ」というと「こっちは地震の本場だ、慣れてっから大丈夫」と冗談をいいながら答えてくれたものです。
いつも相手の立場で考え、ものをいうひとでした。それか幼いものに対しても同じでしたね。
9人の孫たちには格別の愛情を注ぎ、一人一人の長所をほめまくり「あの子はたいしたもんだ」と心から感心している様子でうなずいている姿が目に焼き付いています。皆さんが大好きだったおじいちゃんは、天国から皆さんを見守ってくれてますから安心してください。
私たち一家が東京へ移る前の4年間。3世代同居、10人家族となり、毎朝、5人の小学生のこどもたちの「いってきます」に「おお、気つけていってこいよ」と一人一人に答えていた頃がおじいちゃんにとっては至福の時期だったと思います。
今度は残された孫や私たちがお父さんを、恭平おじいちゃんを見送る番です、おじいちゃん、ご先祖様たちが待っている天国へ、極楽浄土へ、気をつけて行ってください。その道は私たちの残された家族が、祈りをささげ光をあてて輝かせます。そして天国から、極楽浄土の彼方から、またあるときは草葉の陰から私たちを見守り続けてください。どうか、安らかにおやすみください。」
ご静聴、ありがとうございました。仕事を応援してくれた父に報いる為にも
これからもふんばります。





Posted by k-kaori at 12:38:00 | from category: Main | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks
Comments

恵:

人生の羅針盤父であり師でもありましたね。
切ないですね・・・
子の幸福が親の一番の願い
子の幸福が親の深い祈り
・・自分のやりたいことをやれ・・・
子の輝いている姿がなによりの親孝行です。
恭平おじいちゃん私も18歳で就職上京、縁あり子ずれの再婚農業関係でいわきへ戻ると思っていたら・・3・11
暗澹たる思い・・・あんまりにも大きい問題で・・何かしなければと思いつつの日々だった・・・
みっこ班長が旗あげなかったらは私は何もできなかった・・
心やすらかにおやすみください
みっこ班長心に大きな穴が開いてますね。お父さんの望んだ応援してくれた今の活動私も微力ながら応援します。これが恭平おじいちゃんが一番喜んでくれる。
(June 17, 2015 22:24:23)

@kazenosaburou:

お父様の天国からの応援を受けて、ますます神田さんの活動が人々の心に響き、染み渡り、火をともすことにつながると信じています。
(June 21, 2015 19:51:57)

k-kaori:

めぐみさん、kazenosaburouさん、コメントありがとうございました。きょうは初めての父の月命日。気持ちも一段落して、父の励ましを感じながらふんばります。
(July 02, 2015 14:01:47)
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