March 01, 2014

毒ガス工場があった大久野島へ

28(金)昨年お世話になった三原市議の政平智春さんに大久野島案内をお願いし、午後2時に三原駅着。政平さんとボランティア案内の山内正之さんと船で10分の大久野島へ。周囲4キロの小さな島。戦時中は地図から消された毒ガス島。今は瀬戸内海国立公園で休暇村ホテルもあり、野生のウサギがなんと650〜700匹いて観光客を癒してくれるリゾート島でもある。なぜウサギ?戦時中は毒ガスの効き目をためす実験用に使われていたのだった…。毛をむしられ丸裸にされて毒ガス室へ、何秒、何分ぐらいでどう変化して死んで行くかと実験する。ビルケナウのアウシュビッツ収容所を思い出し、めまいがして来た。
まずは「毒ガス資料館」へ。
農家7件が暮らしていた島に工場が誘致されたのは日清戦争後、1927年の事。
元々毒ガス工場は新宿にあったが、関東大震災で被害が出たため、都会ではだめだ、田舎へ作ろうとなった。原発と一緒だ。全国から35カ所名乗りを上げ、その中から選ばれた。化学工場とだしか知らされず、誘致した地元は喜んだ。
なぜ秘密にせざるをえないのか、第一次戦争で毒ガスによりこどもたちまでも虐殺されたので、使用禁止となり日本もそれに同意していたからだ。
ここで製造した毒物のうち、イペリット(マスタード)30分で死ぬ。ルイサイト、青酸ガスなど強烈なものから催涙ガスなども。それぞれ秘密保持のため、色で呼ばれた。イペリットは黄一号。
これらは1942年に中国でひと月に数万発使用され8万人が死亡。2091回。またハルピンでは731部隊による人体実験でも使用された。
工員達、完全防備でもただれる。機密保持のため、昭和10年には地図からも消えた。工員は秘密厳守。
やはり原発作業員と一緒で、身体をこわし医者がこれ以上働けないと判断すると島から出される。口外禁止だから毒ガスのせいと言えない。15年間で6700人が働いたが、300人ぐらいは追い出されたあとに亡くなった。
戦後、後遺症が問題となり、健康管理手帳(毒ガス手帳)をもち、専門病院もある。樋口健二さんが後遺症で苦しむ人たちを写真で告発、山内さんは樋口さんのお陰と感謝している。
戦争も終盤となると徴兵されたりで男が足りなくなり女子動員学徒たちが働かされた。
中国で使用された証拠の「指示書」が展示してあった。
アメリカ、イギリスには使うな。(なぜなら倍返しされるから)中国には使えと。
1993年、化学兵器使用禁止条約に調印したものの中国における毒ガス問題は深刻でいまでも被害者が続出しているが日本は謝罪も治療もしていない。
毒ガスを入れ物として陶器が使われた。なぜなら腐食しないから。大きな陶器がおいてあった。
記念館の前が広い更地になっていて、ウサギがたくさんはねている、観光客をみつけると餌だ〜とばかりに近づいて来てとても慣れていてかわいい。その広場に沢山の工場が建っていた訳だ。
工場を壊したあと、この地に三センチの厚さにさらし粉をまき、その上から土をかぶせた。一応、毒消しのつもりだろう。福島の除染と考えはいっしょ、一応やったつもり。
1945年10月7日に米軍が島にやって来た。毒物が多すぎてとても処分しきれないので大方を海洋投棄した。船ごと土佐湾あたりに捨てた。また島の防空壕の中に捨てた。そのため地下水に毒が混ざっている可能性もあり、今でも飲み水は三原市から運んでいる。
毒ガス貯蔵庫跡。
10トンドラム缶が置かれていた。防空壕の入り口は石垣になっていてすぐ分かる。完全に除去できていない。防空壕に埋める作業は帝人の人たちがやったために帝人にも被害者が出た。
1トンから1000個の兵器ができた。イペリット7トンで山手線内の人々を殺す。10トンだと東京が壊滅。
発電所の建物の前には土手がつくられ松が植えられみえないようにしている。
中は天井が高い。ここで風船爆弾の万球テスト、(破けてないか膨らませて確認する)もやられていた。風船爆弾は直径10mある。検査をしたりラーッカーをぬったり。大久野島では261個つくった。
小倉で爆弾をつけていわき市の勿来へ運んだ。
風船爆弾はすべてやられた陸軍にとって最後の武器。
この中は負数の爆弾と焼夷弾だけ。なぜ猛毒を入れなかったか?もし入れてアメリカで被害が出たら、それ以上の仕返しを受けるからと東条英機が止めた。
また「アメリカ人は牛肉を食べるから、牛を殺せばアメリカは戦意がなくなる」と風船の中に牛を殺す毒を入れる研究が登戸で始まった。
風船爆弾は和紙をこんにゃくのりではりつける。
風船爆弾の発射基地は勿来にもあった。勿来のこんにゃく屋さんも協力させられたのだろう。
女子学生がこの作業をさせられた。小倉の寮に入れられて作業していた女子学生は、夜11時頃まで作業を強いられた。眠くなるとヒロポンを打たれた。
この風船爆弾は夏であれば山火事を起こす事ができたが、偏西風の都合で冬にしか発射できなかった。風船の中は水素がす、一目をさけて発射させるのは早朝かよるだからが青く光っていてきれいだったとか。
9300個がとび、飛行機で落とされたのは三個。361個が届いた。オレゴン州で6人死亡。しかし、アメリカが他国からの爆弾で死者が出たのは今のところこれが最初で最後。
これは1944年の12月から翌年、敗戦の年の4月で終わる。
米軍は重しにつかった砂袋を検査し、その砂が千葉の海岸の砂と断定し
攻撃をした。また茨城にあった水素工場も攻撃した。
陸軍はやる気をなくしていく。
発電所は8機の発電機があった。1990年建物をとりこわす話がでたときに反対署名を10万あつめ中止させた。この発電所の入り口にはMAG2と書かれていた。火薬庫という意味、米軍はここに火薬を集め、朝鮮戦争のとき爆弾置き場となったのだった…。
2時間ちょっとの時間だったが、原発と共通点の多さに言葉を失った。
まず、六ヶ所村が顕著だが最初は原発と言わずに土地を買収する。都会から遠く離れた場所を選ぶ。当時ゴムでできた防護服で頭から足下まで保護しながら作業する姿はタイペックを来たフクイチの作業員を彷彿とさせる。そして身体を壊して解雇された作業員とおなじように、全国の原発作業員、フクイチ作業員も規定以上の線量をあびたらもう働くことは許されない。毒ガスを海に捨てる方法は東電がまねをして高濃度汚染水を垂れ流している。戦後70年近くたっても島の地下水を飲むことはできない。水すら島から奪った。福島の飲み水は安心か?利根川水系も汚染され関東の水道水も汚染されているし…。そして政府に都合の悪いことは「秘密」にする。
戦時中となにも変わっていないのだ。あの戦争で中枢を担った人達はなにひとつ反省していないし、責任も取らない。それどころか首相になったりする。だから戦後70年経とうと何年経とうと同じこと「過ち」を繰り返すのね〜。原発事故で誰も責任を取らないのもその伝統?だとすると、きゃ、怖いですね。もう一度事故らないと原発推進をやめないつもりだ。原発が2度落とされたように…。「くさい匂いは元から絶たなきゃダメ」というコマーシャルが頭の中をかけめぐる。そう、今からでも遅くない。気がついた時が始まりです。
大久野島のうさちゃんに、もう稲葉の白ウサギにはしないからね、と誓って島を後にする。
政府、電力会社にソーシャル•エコロジーの創始者、ブクチンの言葉をプレゼントさせてもらいます。
「誰も、人間の健康と地球の健康を傷つけるような技術装置を考案し使用し、社会に押しつける権利を持っていない。マレイ•ブクチン」
さあ、明日は尾道市で講演、さっそく毒ガス島の報告をします。

3月1日
尾道市、市民センターむかいしまで講演。終了後JRで松江まで移動のつもりが市の方「高速バスがありますよ。時間も短いし』と教えてくれた。バスは三人しか乗っておらず、予定より30分も早く松江市しんじ湖温泉に到着。ゆっくり温泉につかる事ができました。市の職員の方々切符のキャンセルからお土産にお菓子や飲み物を買ってくれて、なんと親切なみなさん。


Posted by k-kaori at 10:03:00 | from category: Main | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks
Comments

恵:

?731部隊のこと調べていた新聞記者(同僚の夫)の人も脅迫されたそうです。
?風船爆弾作っていた人知ってます。私は民間のキュ−ピ−にいました。当時女学生で「最後の決戦」といわれて頑張っていたそうです。本気でアメリカをやつけられると信じていた・・そうです。怖いですねでも私だってきっとそうなっていた・・
だから歴史を知る・事実・真実・を知るっ大事な事なんですね・・・
※指導者はぶれない哲学持ってないと皆を不幸にする・・・・・・
温泉いいですね・・・・
時代はかわっても人はかわらないのですね。繰り返し・・・
方程式があるんですね
(March 07, 2014 20:37:35)

k-kaori:

731部隊がなぜ罪にとわれなかったのか、アメリカが実験資料を没収したかわりに許したんですよね。だから反省がないわけで、子宮頸癌ワクチン受けて少女たちに被害がでても責任とらず知らんぷり。何も変わりませんね。
風船爆弾、勿来から放たれたんですもんね、いわきも無縁ではなかったわけで…。
4月の発表会にはTシャツ持って行きま〜す。
(March 10, 2014 14:41:57)
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