March 28, 2014

玄海原発で意見陳述、袴田さん再審決定など

21(金)大阪府の泉佐野市の市長が「はだしのゲン」を有害図書ときめつけ、小中学校の図書館から回収していたと。なんということでしょうか。またまた「はだしのゲン」が狙い撃ちにされた。キチガイとか乞食とか、あの時代普通に使っていたでしょうに…。教育関係者の皆さん、しっかりがんばって!
24(月)紀伊国屋「松元ヒロ一人立ち」に行く。今回は辻信一さん、石川一雄さん、むのたけじさん、映画は「ある精肉店のはなし」「SAYAMA」そして部落解放同盟運動の発端、水平社宣言など、私にあてて構成してくれた?というぐらいで非常に収穫あり、笑い、怒り、涙、そして後味のいい感動。今回もありがとう〜。終了後はたまたま隣の隣にお座りだった鈴木邦男さんとお仲間の河合塾のみなさんと「千草」でお食事、ヒロさんのお陰で友達も増えました。ヒロさん、おつかれさま、そしてありがとうございます!
27(水)佐賀で一番の名刹願生寺、ちょうど満開の大きなしだれ桜が2本本堂の両脇に。午後2時からの「フクシマを語る」講演会になんと200人以上の皆さんが来てくれました。玄海原発はプルサーマルの3号機がありとても再稼働など許せない!講演の合間には拍手が入り、そうだのかけ声も、とにかく明るく元気にもりあがりました。


この日、何より嬉しいのは袴田巌さんの再審が決定したことだ。それにしても警察が証拠をねつ造して48年間も死刑囚として交流され続け、今は拘禁症となってしまった袴田さん。絶対に許せません。彼の人生を返せ!サロンの福田織福さんは3年前から「袴田巌ー百万遍」を語ってる。これからもえん罪をなくすために、語り続けてほしい。
28(木)「原発なくそう!九州玄海訴訟」第8回裁判、佐賀地方裁判所で意見陳述。はじめに「佐賀市内は桜が満開です。福島原発の周辺にも先らの名所がたくさんありますが、もはやみることは出来ません。佐賀のみなさんがこれからも毎年お花見を楽しむことができるよう祈念しつつ、陳述させてもらいます」と一言ご挨拶。7分半の持ち自慢を終えても拍手なし。ちょっとさみしい?(笑)再稼働申請している九州電力さん、お花見できなくなると、寂しいですよ〜。「夜ノ森の桜ひとっこひとりなし」


March 16, 2014

伯方島へ

15(土)日比谷野音で脱原発集会があるのだが、伯方島への移動にため、参加できず。でもサロンの有志が法被姿で行ってくれた!5000人以上が集まり盛り上がったよう。1日に来たばかりの向島の標識をみながら伯方島へ。
旅館の目の前が海で激しく渦をまいていていかにも深そうだ。航路にもなっていて大きな船が横切ってゆく、壮大な景色にうっとり。
16(日)、晴天のなか、200人ぐらいきてくれました。安倍首相の諸々から再稼働の動き、福島の現状、そして講談の抜き読み、最近時間が足りなく感じる。で、10分多く語らせてもらいました(笑)
ミカンも塩羊羹も美味しかった、なんといってもはかたのしお〜。伯方島のみなさん、お世話になりました。





March 10, 2014

松江、磐梯熱海そして富山へ

3月2(日)プリエールフェスティバル2014の講演会、「花も嵐も講釈師が語ります」という当たり障りのない演題で、言いたいことを言わせてもらいました。なにしろ、あの「はだしのゲン」閲覧制限の松江市ですから、ま、そのお陰で漫画が沢山売れたのは不幸中の幸(笑)私の前に歌を披露してくれた梶谷美由紀さんは震災後子どもさんに健康被害がでて、東京から郷里の島根県大田市で避難生活中。関西疎開ネットワークの中村純さんとも懇意とのこと。「避難移住者達の声」から素材をえた「福島の祈り」のモデルの一人かもしれないと思うと出会いに感謝だ。地元でも保養を受け入れたいと奔走中、ぜひ繋がって行きたい。

8(土)「原発のない福島を!県民大集会」、雪が吹きかける中、全国各地から3000人もの人が来てくれた。アトラクションとして午前中に「福島の祈り」を一席。午後1時ごろには満席。いわき会場、福島会場とあわせると5000人も!大江健三郎さんのスピーチ。戦争が終わった時伊丹万作監督が「戦争が終わると自分たちは騙されていたと言う。騙されていたの一言で一切の責任から逃れたと思っている。先を思うと暗澹たる気持ちに」再稼働の動き。今も騙されたいと思っているのでは… と連帯の挨拶。
この日、突然安倍首相が来福。小名浜のララミュウで魚をたべて「美味しい、もう安全」とのこと。あそこの魚は他から仕入れているのですがね…。
4月から年間20ミリまで大丈夫とのことで(不思議、法律で1ミリと決まっているのに?)帰還させられる都路村では数人の方々と約15分ぐらいカメラの前で「忌憚なく意見を聞き」?「復興を実感した」とお帰りに。カメラにはいわき会場で挨拶する予定だったのにドタキャンしたいわき市長、復興大臣の根本匠、そしてあの天下の悪法、特定秘密保護法案の担当大臣をつとめた森雅子大臣が安倍首相のそばに。市長も大臣たちもあの映像みて、県民が喜ぶと思っているのかしら?
かくして、NHKの夕方のニュース「大集会」は3分、安倍首相は6分。大江さん映らず。じゃんじゃん。
9(日)磐梯熱海から移動し7時半頃富山に到着。だいぶ前に「はだしのゲン」で呼んでくれた「真酒亭」に顔を出す。「佐藤助九郎伝」で富山に来て以来だから5年ぶり。富山の美味しいお酒をいただき、二日酔いすることもなく、会場入り。なんと満席以上?昨日の「県民集会」から安倍首相来福から柳刃包丁で自殺した被災者の話など、(責任をとって切腹すべきは他にいるのだ〜!)のっけから怒りいっぱいの講演となり、終盤は時間が足らず焦りまくりながらも、フラガール、ゲン、チェルノの抜き読みそして「一万円」となんとか間にあいました!天田愚庵の末裔の方も来てくれ挨拶してくれた。会場の一階のお寿司屋さんでおいしいお刺身、お寿司をごちそうになり、ちょっと食べ過ぎ?で帰路に。みなさん、お世話になりました。
10( 月)10万人もの一般人が炎にまかれ虐殺された東京大空襲から68年前、心よりご冥福を祈ります。

March 01, 2014

毒ガス工場があった大久野島へ

28(金)昨年お世話になった三原市議の政平智春さんに大久野島案内をお願いし、午後2時に三原駅着。政平さんとボランティア案内の山内正之さんと船で10分の大久野島へ。周囲4キロの小さな島。戦時中は地図から消された毒ガス島。今は瀬戸内海国立公園で休暇村ホテルもあり、野生のウサギがなんと650〜700匹いて観光客を癒してくれるリゾート島でもある。なぜウサギ?戦時中は毒ガスの効き目をためす実験用に使われていたのだった…。毛をむしられ丸裸にされて毒ガス室へ、何秒、何分ぐらいでどう変化して死んで行くかと実験する。ビルケナウのアウシュビッツ収容所を思い出し、めまいがして来た。
まずは「毒ガス資料館」へ。
農家7件が暮らしていた島に工場が誘致されたのは日清戦争後、1927年の事。
元々毒ガス工場は新宿にあったが、関東大震災で被害が出たため、都会ではだめだ、田舎へ作ろうとなった。原発と一緒だ。全国から35カ所名乗りを上げ、その中から選ばれた。化学工場とだしか知らされず、誘致した地元は喜んだ。
なぜ秘密にせざるをえないのか、第一次戦争で毒ガスによりこどもたちまでも虐殺されたので、使用禁止となり日本もそれに同意していたからだ。
ここで製造した毒物のうち、イペリット(マスタード)30分で死ぬ。ルイサイト、青酸ガスなど強烈なものから催涙ガスなども。それぞれ秘密保持のため、色で呼ばれた。イペリットは黄一号。
これらは1942年に中国でひと月に数万発使用され8万人が死亡。2091回。またハルピンでは731部隊による人体実験でも使用された。
工員達、完全防備でもただれる。機密保持のため、昭和10年には地図からも消えた。工員は秘密厳守。
やはり原発作業員と一緒で、身体をこわし医者がこれ以上働けないと判断すると島から出される。口外禁止だから毒ガスのせいと言えない。15年間で6700人が働いたが、300人ぐらいは追い出されたあとに亡くなった。
戦後、後遺症が問題となり、健康管理手帳(毒ガス手帳)をもち、専門病院もある。樋口健二さんが後遺症で苦しむ人たちを写真で告発、山内さんは樋口さんのお陰と感謝している。
戦争も終盤となると徴兵されたりで男が足りなくなり女子動員学徒たちが働かされた。
中国で使用された証拠の「指示書」が展示してあった。
アメリカ、イギリスには使うな。(なぜなら倍返しされるから)中国には使えと。
1993年、化学兵器使用禁止条約に調印したものの中国における毒ガス問題は深刻でいまでも被害者が続出しているが日本は謝罪も治療もしていない。
毒ガスを入れ物として陶器が使われた。なぜなら腐食しないから。大きな陶器がおいてあった。
記念館の前が広い更地になっていて、ウサギがたくさんはねている、観光客をみつけると餌だ〜とばかりに近づいて来てとても慣れていてかわいい。その広場に沢山の工場が建っていた訳だ。
工場を壊したあと、この地に三センチの厚さにさらし粉をまき、その上から土をかぶせた。一応、毒消しのつもりだろう。福島の除染と考えはいっしょ、一応やったつもり。
1945年10月7日に米軍が島にやって来た。毒物が多すぎてとても処分しきれないので大方を海洋投棄した。船ごと土佐湾あたりに捨てた。また島の防空壕の中に捨てた。そのため地下水に毒が混ざっている可能性もあり、今でも飲み水は三原市から運んでいる。
毒ガス貯蔵庫跡。
10トンドラム缶が置かれていた。防空壕の入り口は石垣になっていてすぐ分かる。完全に除去できていない。防空壕に埋める作業は帝人の人たちがやったために帝人にも被害者が出た。
1トンから1000個の兵器ができた。イペリット7トンで山手線内の人々を殺す。10トンだと東京が壊滅。
発電所の建物の前には土手がつくられ松が植えられみえないようにしている。
中は天井が高い。ここで風船爆弾の万球テスト、(破けてないか膨らませて確認する)もやられていた。風船爆弾は直径10mある。検査をしたりラーッカーをぬったり。大久野島では261個つくった。
小倉で爆弾をつけていわき市の勿来へ運んだ。
風船爆弾はすべてやられた陸軍にとって最後の武器。
この中は負数の爆弾と焼夷弾だけ。なぜ猛毒を入れなかったか?もし入れてアメリカで被害が出たら、それ以上の仕返しを受けるからと東条英機が止めた。
また「アメリカ人は牛肉を食べるから、牛を殺せばアメリカは戦意がなくなる」と風船の中に牛を殺す毒を入れる研究が登戸で始まった。
風船爆弾は和紙をこんにゃくのりではりつける。
風船爆弾の発射基地は勿来にもあった。勿来のこんにゃく屋さんも協力させられたのだろう。
女子学生がこの作業をさせられた。小倉の寮に入れられて作業していた女子学生は、夜11時頃まで作業を強いられた。眠くなるとヒロポンを打たれた。
この風船爆弾は夏であれば山火事を起こす事ができたが、偏西風の都合で冬にしか発射できなかった。風船の中は水素がす、一目をさけて発射させるのは早朝かよるだからが青く光っていてきれいだったとか。
9300個がとび、飛行機で落とされたのは三個。361個が届いた。オレゴン州で6人死亡。しかし、アメリカが他国からの爆弾で死者が出たのは今のところこれが最初で最後。
これは1944年の12月から翌年、敗戦の年の4月で終わる。
米軍は重しにつかった砂袋を検査し、その砂が千葉の海岸の砂と断定し
攻撃をした。また茨城にあった水素工場も攻撃した。
陸軍はやる気をなくしていく。
発電所は8機の発電機があった。1990年建物をとりこわす話がでたときに反対署名を10万あつめ中止させた。この発電所の入り口にはMAG2と書かれていた。火薬庫という意味、米軍はここに火薬を集め、朝鮮戦争のとき爆弾置き場となったのだった…。
2時間ちょっとの時間だったが、原発と共通点の多さに言葉を失った。
まず、六ヶ所村が顕著だが最初は原発と言わずに土地を買収する。都会から遠く離れた場所を選ぶ。当時ゴムでできた防護服で頭から足下まで保護しながら作業する姿はタイペックを来たフクイチの作業員を彷彿とさせる。そして身体を壊して解雇された作業員とおなじように、全国の原発作業員、フクイチ作業員も規定以上の線量をあびたらもう働くことは許されない。毒ガスを海に捨てる方法は東電がまねをして高濃度汚染水を垂れ流している。戦後70年近くたっても島の地下水を飲むことはできない。水すら島から奪った。福島の飲み水は安心か?利根川水系も汚染され関東の水道水も汚染されているし…。そして政府に都合の悪いことは「秘密」にする。
戦時中となにも変わっていないのだ。あの戦争で中枢を担った人達はなにひとつ反省していないし、責任も取らない。それどころか首相になったりする。だから戦後70年経とうと何年経とうと同じこと「過ち」を繰り返すのね〜。原発事故で誰も責任を取らないのもその伝統?だとすると、きゃ、怖いですね。もう一度事故らないと原発推進をやめないつもりだ。原発が2度落とされたように…。「くさい匂いは元から絶たなきゃダメ」というコマーシャルが頭の中をかけめぐる。そう、今からでも遅くない。気がついた時が始まりです。
大久野島のうさちゃんに、もう稲葉の白ウサギにはしないからね、と誓って島を後にする。
政府、電力会社にソーシャル•エコロジーの創始者、ブクチンの言葉をプレゼントさせてもらいます。
「誰も、人間の健康と地球の健康を傷つけるような技術装置を考案し使用し、社会に押しつける権利を持っていない。マレイ•ブクチン」
さあ、明日は尾道市で講演、さっそく毒ガス島の報告をします。

3月1日
尾道市、市民センターむかいしまで講演。終了後JRで松江まで移動のつもりが市の方「高速バスがありますよ。時間も短いし』と教えてくれた。バスは三人しか乗っておらず、予定より30分も早く松江市しんじ湖温泉に到着。ゆっくり温泉につかる事ができました。市の職員の方々切符のキャンセルからお土産にお菓子や飲み物を買ってくれて、なんと親切なみなさん。