May 29, 2012

「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」の年次総会

27日
暑いぐらいの晴天、「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」の年次総会と講演会、懇談会、ほぼ予定通り無事終了しました。総会出席者は正会員38人賛助会員7人委任状63人、正会員の中には遠路京都からきてくれた方も!
「裸のフクシマ」のたくきよしみつ氏の講演、吉田恵美子さんを交えてのトークセッションには一般の方も大勢参加してくれた。

メルマガ「原発通信」発行者の阿部さんの感想を紹介。
(●広がる「被災者格差」。そして破壊されるコミュニティー
昨日、東京・広尾で行なわれた『裸のフクシマ』を書かれた、たくきよしみつ氏講演会に行ってきました。
たくき氏からは、福島第一原発事故で避難されている人たちの状況や、川内村の様子、避難先住民と避難者の間にできてきた“溝”などについて話されました。
まずは、20キロ圏、30キロ圏というけれどどれほどのイメージかということで東京湾岸にある東電品川発電所を福島第一と見立てた地図を掲示。20キロ圏というと東京23区はすべて入り、北は川口、南は横浜、西は三鷹、東は習志野がすっぽり入ります。30キロ圏になると西は立川、東は東京湾対岸の木更津市までがすっぽり。それほどの面積だということです。
現地を知らないマスコミによる増幅されたイメージの固定化、わざわざ線量の高いところにある学校に避難してきた子どもたちが通っているということ。避難誘導のまずさから放射性ヨウ素を取りこんでしまった人たち=内部被曝を受けた人たちが多く出ているだろうとも。
そして何より、「除染」ということで外から業者が入り、にわか景気の様相を呈しているといいます。また、賠償問題で生まれた隣人同士、避難民と避難先住民との軋轢等生々しい話が紹介されました。要はここでも「カネ」をめぐる生臭い話が展開されているのです。私も別のところで、避難の時のこと――避難所でのことなどを聞く機会があり、暴動が起きなかったということで海外から称賛を浴びましたが、暴動という派手なことがなかっただけともいえる状況があったとも言います。
たくき氏は言います。福島のことをわがこととしてとらえてほしいと。そう、関東も含め、東日本全域に放射性物質は降り注いだのですから。
いずれにしてもこの原発事故によって、これまでのコミュニティーが分断され、分断のみならず「格差」「差別」等まで生み出し、まさにむき出しの人間がそこに現われてきているということです。その意味においても原発は“罪作り”です。
会の最後、講談師の神田香織さんが「誰がこの状態をつくったのか」と問いかけました。そう、原発をつくった政府・電力会社、原子力マフィアの連中のことを忘れてはなりません。誰がということ、追及しなければなりません。会社が、組織だとだけしたならば、責任はまた先の戦争責任の問題と同様、霧散してしまうでしょう。「誰が」に私はこだわっていきたいと思います。同時に、それを“許してきた”私たち一人ひとりが問われているのだということも。)
阿部さん、ありがとうございます。

 懇談会ではJCO事故の後、裁判を起こした大泉さんの息子さん(ジャーナリスト)も参加してくれた。この団体を立ち上げた時の気持ちを思い起こす。年を経ると、福島のみならず、原発事故の災禍は拡散する一方なのに、報道は下火になるに違いない。ひとりだったら、落ち込み何も出来ない、だから輪を広げなければ!という予感。新会員も増え、気持ちをひとつにする仲間がいることの大切さを更に確信した一日でした。



May 25, 2012

山形で「フラガール物語」

23日は午前11時半に米沢着。
4年前に「はだしのゲン」で呼んでもらった皆さんが中心となって福島原発避難者支援のチャリティー公演「フラガール物語」。開演までの間、九里学園高校で短い講話をさせていただいた。「チェルノブイリの祈り」の抜粋を語り始めると水をうったように静かになって聞いてきれた高校生たち。中にはいわきからの転校生も。福島から車で一時間ほどの米沢には3700人の避難者が、山形県全体では13000人の方が住んでいる。山形は高い山々が放射能から守ってくれた。線量は東京よりずっと低い0,04。
「フラガール物語」にはなんと50人近くの方々をご招待してくれた。避難者の会の武田さんに続いて私。マクラで福島の話をはじめると会場からはすすり泣きが。本編では大いに笑っていただき、懇親会も盛り上がりっぱなしでした。山形の皆さん、心に残る一夜をありがとうございました。


22日は静岡で県職員退職者の会に呼ばれました。
前日は金冠日食、当日はスカイツリー開業というので、上へ上へと大騒ぎ。しかし、東京新聞には2号機に続いて1号機も格納容器に穴、毎時数トンの汚染水が。上を見上げている場合ではない、足下では重大な事態が進行しているのだなどと思いながら新幹線にのってあっというまに静岡着。会場にはいって着替えようとしたら、嗚呼、なんと長襦袢を忘れてた!朝、大急ぎで半襟をつけたのに…。
時間がない、が、駅前のデパートにあるはずと走って買い求め、帰りは駅からタクシーで。歩いて7分の会場だから、運転手さんに思いきりいやな顔をされた。仕方がない。5分で髪をセットし、10分で着替え終えた途端にお迎えの方がドアをノック。涼しい顔でお供する私。おそらく直前のバタバタを彼は知らない。
福島、チェルノブイリと話し、最初と最後には「時間と小金があるみなさん、いまこそ大きな声で世直しを!出番ですぞ〜」と滑舌やら発声やらトライしていただいた。用意していただいたお弁当を帰りの新幹線でいただきながら、足下をみるのも大事だが、着物の小物の確認も忘れては行けないと慌ただしい一日を振り返った私でした。

花巻リフレッシュハウス下見

20日 秋田からの帰りに花巻へ寄る。福島の子どもたちの保養「リフレッシュハウス」を提供してくれている方にお宅の下見と周りの案内をしてもらった。まあ、花巻の景色のすっばらしいこと!どこまでも続く田園風景、遠景の山々、こどもだけでなく、大人も間違いなく癒される。一番近いスーパー、清水寺、高村光太郎山荘、県立花巻公園と案内してもらう。天気もよく、公園では大勢の家族連れが着物姿の私をめずらしげに見ていた。公園で汗を流し、公園と隣接している金矢温泉で汗を流す…行き届いている!宮沢賢治記念館の前には「童話村」が出来ていた。記念館から「新花巻駅」はすぐそば。夏休み等、家族連れに楽しんでいただける事間違いなし、です。

秋田で避難者の方々と

19日、普段「たんすのこやし」になりがちな着物を着て伝統文化と料理をたのしむ「川反夜会」に呼んでもらった。

場所は秋田の繁華街で有名な川反の老舗「割烹かめ清」さん。女将の友子さんはとても熱心で、あらかじめ聞いておきたいと、なんと、一ヶ月前の千葉と奥会津の公演に泊まりがけで来てくれたほど。
当日は昼の部で原発事故の避難者のご家族10名を招待してくれました。休憩時間は皆さんと歓談、なんと3時間もお話を聞くことができました。

今、1067人の方が秋田で避難生活をしているとのこと。原発立地地域から避難しているご夫婦たちはもう住めないと諦めていらっしゃる様子だったが、そんな様子に「どうしてそんなに普通に話せるんですか、帰りたくないんですか!」と声をあらげたのは郡山から幼い娘さんと自主避難したまだ30歳の方。夫は農家の長男で会社務め、実家の両親や兄弟たちも帰ってこいコール。彼女は目に涙を浮かべながら「帰りたい」と。「娘が毎日言うんです、パパに会いたい…」おそらくそれは彼女の気持ちでもあるだろう。「秋田は言葉も違うし、やはり、福島とは違う」と彼女。きっと、秋田にとけ込むのをよしとしない自分がいるのだろう。なるべくお連れ合いに来てもらい、一緒にいる時間をふやして、それから秋田での生活に自分からなじもうとしてみて、とありきたりの事しか言えなかった。
また、南相馬から自主避難し、仕事も秋田で見つけた40代の女性は小学生の息子とふたりぐらし。「南相馬の葬儀屋で仕事をしていた。津波で亡くなった方々が次々と運び込まれている状態で、仕事をやめて避難した、一大決心だった」と当時を振り返る。そして「息子が2人、上の子は高校生で、何度言っても避難しないという。仕方がない、今は実家の両親と暮らしているが、心配で心配で」と涙を流す。そして「息子なりに勉強してこう云っている。『自分たちは国に捨てられたんだね、おかあさん』と」。高校生にこんな絶望的な言葉をはかせるこの国の政府に、私たちは税金を払って養う価値があるのか!!
 2月に静岡での「さよなら原発1000万署名」集会でご一緒中田さんの事を聞いてみた。中田さんは元旦の地震で予定をはやめ秋田へ引っ越した。返ってきた返事に私は自分の耳を疑った。「彼女はちょっと過激なので連絡取ってない」との事。「脱原発とか、反原発とかはっきり言っているから」と。
えっ、これほどの目にあいながら皆様は「脱原発」「反原発」でないの!?私は面食らって…クラクラしながら思った。こういう方々にこそ「チェルノブイリの祈り」を聞いてほしかった!

May 18, 2012

仮設住宅で

12日いわき市中央台の仮設住宅へ。
6畳2間に台所、洗面所、佐藤さん宅の仮設住宅に集合してくれたお仲間もふくめ7人。お赤飯やおにがし、蕗の煮ものなど昼食を準備していてくれた。美味しくいただきながら世間話?のような雰囲気でお話を聞くことができた。
みなさん楢葉町の方で楢葉町民が住む仮設はここでは200戸、他に広野町の人たちの仮設もある。この木造住宅はちょっとした山小屋風でロフトがついていて寝ることもできる。プレハブの仮設に住む人からは同じ広さでも天井が高いから開放的、木造の方が良かったとの声も。いずれも防音は問題。隣のトイレットペーパーのカラカラ音が聞こえると言う。若い婿さんが同居のばっぱ(姑)に「ばあちゃんは何歳まで生きるんだ」と聞いたとか(笑)
楢葉の民数は7800人、うち津波犠牲者は11人。4月に警戒区域解除となったが、戻りますかと聞くと全員「いや〜戻れない」と。線量は1、2から2、8ぐらいあるという。たとえ戻っても仕事はないし、病院もないし、買い物も不便で魚もとれないし、野菜や米も不安とくれば、たしかに、もどれと言う方がおかしいというものだ。特に若い人たちはもう戻れない、ときっぱり言っているそうだ。

当時の様子を昨日のことのように話してくれた。3月11日3時36分津波がきて、東電関係者たちは4時半頃には原発が危ないと知る、そして、11日の夜には栃木や茨城ナンバーのバスが東電社員を逃がすために集まり、逃がした。まるで「関東軍」のようだ。
住民はどうか。3月12日朝8時に放送された防災無線は「南に逃げなさい」というだけでその理由については一言もなし。訳も分からずとりあえず「2、3日でいいべ」と勝手に決めて、着の身着のまま避難したそうだ。私が「原発事故」と思わなかったのかと聞くと、まったく思いもよらなかったと。これは意外だった、私などはここ20年ぐらい地震の度に心配したものだが…。その後の苦労は大変だったそうで、皆さん体育館や親戚を頼ったりと平均5〜7回避難所を経て昨年7月にこちらへ入居された。
避難所にもあたりはずれがあったそうで、食事が良すぎて8キロも太ったという人もいた。揚げ物が多く昼食は丼もの、作ってくれた人に悪いからと残さずいただいた結果だそうだ。また千葉に避難した方は、いわきナンバーの車をみて小さい子たちが逃げ出したとも。この避難から得た教訓としてある方がきっぱりと「常に下着も服もいい物を着ること。お金は多めに持っていること」。



楢葉町へは許可証がないと入れない。6月には一時帰宅に同行させてもらうことになった。
短い時間だったが、みなさんの実感を聞くことができた、そして今は笑って話しているが、この仮設住宅に辿り着くまでどれほど涙を流したことか容易に想像がつく。愛犬を保健所に送らざるを得なかった方の心境、数年かけて日本中からいい材木を集めて造った屋敷をあきらめきれない無念。それでも、いわきの人たちと補償金暮らしの彼らの間には溝ができつつあり、深刻さを増している、これはいわきのみならず福島県内を覆っている暗雲。
敵を間違えてはいけない。「政府も東電も事故の責任をとって止めた人は一人もいない」事をわすれてはならないのです。