December 31, 2011

大晦日!1週間まとめ書き

あと3時間で2万人近い方が犠牲になった大震災の年、2011年が終わります。しかし、チェルノブイリ以上となってしまった史上最悪の原発事故は「収束」するどころか、海に山に田畑に、都市にと放射能被害は拡散し、今後ますます…。年末の1週間、あちこち動きました。そして28日の張り扇供養を終えた翌日扁桃腺をはらし、鼻風邪状態で大晦日を迎え今、今年最後のブログを。

23日、郡山迄足をのばし、「集団疎開裁判」の報告、広河隆一さんの講演を聞く。
チェルノブイリでは移住させらた赤い部分、郡山では同じ線量でも移住させてもらえないのだ。チェルノブイリでは事故後3年とくに変化がなく安心して生活していたら、その後ばたばたと病気になった。郡山は強風で寒かった。駅から出るとすぐに線量は上昇し、0、4とか0、5μSv。それなのにほとんどマスクなし。子ども達もマスクなして走り回っていた。嗚呼!

26日、織音が大掃除に来てくれて家族全員で大掃除。鳩達のトイレ状態だったベランダがとてもきれいになり、すっきりして夕方は庄野真代さんのライブで下北沢「音倉」へ、バンド名はデッセンバーズ、そう、庄野さん達全員が12月生まれ。12月生まれはドリンク一杯サービスでご馳走さま。楽しい一夜でした。

28日朝6時に福島をバスで出発し「原発いらない福島の女たち」が東電に「年末のご挨拶」に来た。申入書を手にし、東電内に入れてと願う女たちに東電の係の方はとても冷たく接したそうだ。寒空の中、なんとトイレも貸してくれず…。その女たちを経産省前でお出迎え。私が福島に住んでいたとき「チェルノブイリの祈り」を聞いてくれた人たちだ。「あの消防士の妻を可哀想に思ったけど、今やわたしらの方がもっと可哀想になっちゃった〜」。武藤類子さんの音頭で「会津磐梯山」を歌って彼女達は銀座へビラまきに移動。私はその足で薬研掘不動院へ。問屋街は歳末の売り出し中、財布を2つも買ってしまった。中身もないのに(笑)
恒例の「張り扇供養」今年は、震災の犠牲者の皆様のご冥福を心からご供養。帰りに港合同法律事務所の望年会に。安田弁護士お手製のおいしいカレーを頂き、わたしの仕事納め。

29日、「プロメテウスの罠」にも登場する浪江町の門馬さんご夫妻に「香織チャンネル」の出演していただく。40年前3人で始めた反原発運動、それがこの事故に遭遇し、今は北区に住んでいる。北区に移り住んだ当初はあまりの憤りに体調を壊されたとか。門馬さんは静かに言う「浪江町にもどれというなら、まず東電の幹部のみなさんが住んでください。自分たちの孫を浪江の学校に通わせて、浪江の水を飲ませてください。そうなれば私達も戻ります。浪江の人たちは戻りたくても戻れないのです」東電の幹部の皆さん、「率先垂範」ですぞ。

30日、新内、富士松鶴千代さんのご母堂の告別式。98歳大往生でした。合掌。午後、若者でにぎわう原宿、少し入った住宅街でぱたんぱたんとお餅つき。友人宅の餅つき大会でつきたてのお持ちをご馳走になる。白ごま、黒ごま、おろし、納豆、くるみだれ、のり巻き、雑煮、おいしいのなんの。大勢のみなさんが集まり会話もはずみ。子どものころ、土間で毎年両親が餅つきをしていたのを思い出す。つきたての持ちをこねる年寄り達。あの頃は原発もなく…。生みたての鶏の卵を食べ、絞り立ての牛の乳を鍋で沸かして、それを飲んでから学校へ。…ふかした大豆を若かりし母が笑いながら踏んで味噌作り。それらの様子が昨日のことのように思い出される。あのような「質素で贅沢」は福島県から消えてしまった。
そんな生活を望んで福島に移住した人たちも福島をさらざるをえなくなった。すべて放射能のせいで。東京電力放射能ばらまき事件のせいで。

「はだしのゲン」「チェルノブイリの祈り」を語ってきた私としては今も忸怩たる思い…とても新年をお祝いすることはできませんが、みなさま、一年間支えてくださり、ありがとうございました。NPOの方もいよいよ本格始動開始です。来年も応援のほど、よろしくお願いします。


December 19, 2011

ラジオビタミンときめきインタビュー

15日
「ラジオビタミン」聞いてくださった方、ありがとうございます。いや、生放送はあっという間でした。村上アナウンサーは私の本まで買ってくださっていてうまく話を引き出してくれました。メッセージも30枚以上もいただきました。
講談サロン1期生の笠井さんのメッセージは番組で紹介され天草のお仲間も喜んでくれたことと思います。
笠井さんはじめ愛媛の渡邊さん、徳島の高開さん、埼玉の若林さん、メッセージを寄せてくれた皆様、聴いてくださったみなさまありがとうございました!

16日香喋庵にて「北区子ども達を放射線から守る会」の田尻香織さんインタビュー。学校帰りの小4の娘さんも一緒に来てくれた。迎えに出てみると向こうの方から歩いてくるお二人の姿、すぐに分かったのは二人ともマスクをしている。偉い!
田尻さんも娘さんも原発事故の後、北区の医師会が500万出して食物線量測定器を北区に設置するべく申し出たのに、区はまだ返事を保留中なんですって。あきれた。4月頃からはじめていたら母親達もそれを活用し、少しは安心できて23区をリードする北区になっていたのに!また、母親たちの陳情を鼻でせせらわらう区議会議員が大勢いることも知った。
 事故後厚労省が母親向けに出したパンフレット。「食べ物は安全です。母乳も安全です」と根拠も数値もしめさず、お題目のように「なんでも安全」を繰り返すパンフ。これをみて不安になった母親達がツイッターなどでつながり、各地に会ができ、猛烈に勉強し、自分たちで子ども達を守り始めていて、この動きは全国各地に広がっている。
取材が終わったあと、郡山の「集団疎開裁判」が「却下」され、柳原弁護士の無念の記者会見を見た。「郡山市に居住する他の児童がいる限り、教育活動を継続しなければならず、教育活動を差し止めるのは困難である」との理由。おかしい。だって申立人14人の疎開を要求した裁判なのだから。答えになっていない。どうした裁判所!
時間をおなじくして野田総理は「冷温停止状態」を発表。あれっ?冷やすべく核燃料がどこにあるかも分からないのに??
裁判所も政府も、国民から乖離して音をたてて崩れて行く。希望と絶望の一日。

17日「第23回多田謡子反権力人権賞授賞講演会」に参加。永年反原発でがんばってきた石丸小四郎さん、佐藤和良さんたちが受賞したのだ。ハイロアクションの女性達も参加、武藤類子さんの静かな語り。大賀あや子さんの涙の訴え。いつ聞いても胸がいっぱいになる。28日には今年最後の東電前抗議と経産省前行動があるそうだ。ぜひ参加したい!




December 11, 2011

「さよなら原発1000万人署名」日比谷野音

10日は晴天、冬らしい寒い一日。「さよなら原発1000万人署名」日比谷野音の集会で司会を担当。野音に行く前には有楽町駅前で署名活動とアピール。

パンタさんのコンサートの間、スイステレビの取材を受ける。スイスは東電放射能ばらまき事件の後、ほどなくして脱原発に舵をきった国だ。いいな〜スイスは。日本はなんと原発輸出を可能にする原子力法案が国会で承認されたばかり。自分のお尻もふけないのになんという愚行!
大江」健三郎さんが「政治家達の原発に対する感覚が311以前に戻り鈍感になった。この風習の中で、原発を廃絶しようという根本の決意にたった運動のみが頼りだ」と。終了後はパレードに参加。香織倶楽部の野村さん福田さん鏡さんの3人がものぼり旗を持って参加してくれた。寒い中、みなさんお疲れさまでした!!皆既月食も見れたし、(首が痛かった)「つながれば元気になる、この輪を全国に」を実感した一日でした。







December 09, 2011

香織倶楽部第6回発表会etc

7日、講談サロン香織倶楽部第6回発表会。今回はベテラン勢が裏方を担当してくれて、福山から駆けつけた新人の新納さん、陶器のガマ持参の田口さんが初高座。新作はスカイツリーのカイダンをのぼって発電しちゃうという鏡さんの「冬のカイダン」、郡司さんの被災地支援「福島物語り」笑いの中にもしられざる原発反対運動の実話がおりこまれ、水準高い!!とは打ち上げ会場のお客さんの声。古典を披露した他のメンバーも持ち味が充分に出ていて、そでで聞いていて感心したり、ハラハラしたり、笑いをこらえたり、しばらくは思い出し笑いが続きそうです!

8日、氷雨の一日、先日は粉ミルクからセシウムが検出され、赤ちゃんがいるお母さんはそれでなくても食物汚染が心配なのに…女子どもを粗末にする、こりゃだめだこの国と憤りつつ、神奈川連合女性委員会20周年記念講演に呼んでもらい横浜で「フラガール物語り」を。この講談は聞く方も語る方も元気になるからあら不思議。女性パワーで、逆境にもにこやかにしたたかに、と気持ちを立て直す。

 9日、木馬亭昼席。震災で知り合ったブログの友達、時雨さんがお花をもって楽屋に来てくれた。初対面なのに、とても懐かしい感じがしました。なんでも私が小学6年で通学班の班長だったとき一緒に通学したとのこと。「いつも三つ編みで…」そう、あのこといつも三つ編みでした、ああなつかしい。私達が子どもの頃は放射能の心配などなく自然の中を転げ回って遊んでいたっけ…。今の福島の子ども達のことを思うと胸が締め付けられる。ごめんね、本当に…。
時雨さんとはこれからも励まし合って、知恵を出し合って、支援の輪を大きく広げることができそうな予感、時雨さん、きょうはお目にかかれてうれ

December 05, 2011

「脱原発をめざす講演会in北区」

11月30(水)
イベント終了した翌日から連日サロンの生徒さんの個人レッスン。発表会が近づいているからか、気迫が違う(笑)きょうは2人の稽古終了後、日暮里で鼎談。
 週刊新社会の年頭の企画で「福島原発避難者の生きる権利を」。小高町から国分富夫さん、大熊町で3月中旬に新築した家に引っ越す予定だった大賀あや子さん、おふたりとも会津で避難生活をしている。当事者ならではのなまなましい報告、「若い人のみならず、年寄りも、帰れるのか、どうなのかはっきりしてほしいと訴えてる、若い人たちには将来がある、そして年寄りは残り少ない人生を大切に生きたいと切望している。帰れないなら科学的な証明をしてはっきり帰れないといってほしい」と大賀さん。政府は彼らの身になってはっきり「引導」を渡すべきだ。このまま「へびの生殺し」では年の瀬も新年もむかえられないというものです。お二人の報告は新年号をごらんあれ。


12月2(火)
今年大ブレイクした新聞、東京新聞の中山記者に誘われて「理由のない忘年会」に参加。なんと、有楽町の東宝ダンスホールが会場。洋画のワンシーンかと思うようなドレス姿の女性たちがところ狭しと踊っている、それを眺める感じで約一時間ボーッと。すっかり別世界気分が出来上がったところで別会場へ。今をときめくジャーナリストたちや出版関係社や東京新聞記者達。なかにはあの日野美佳さんも。彼女の「氷雨」に青春時代にワープした私達は、興奮覚めやらずもう一件。やがて電車もなくなり、タクシーで帰還したのでした…痛い出費…。


4(日)
昨年の4日は女性ジャーナリスト特別賞授賞式だった。あれから一年、たった一年でこんなにも変わってしまうとは…感慨無量の特別な一日。
北赤羽区民館で「脱原発をめざす講演会in北区」浪江町から北区に避難している門馬さんの話は怒りにみちて、胸が塞がるおもい。
「北区子どもを放射線から守る会」の田尻さんの報告にはびっくり。マンションの一階に住む田尻さんは小学2年生と4年生の母親。子どもたちの鼻血がとまらず自分で庭などを除染したそうだ。甲状腺をはらしている子どもも。北区でも進行する低線量被爆の実体にみな、唖然。学校は給食食材の線量を計らない。彼女は子どもたちに弁当を持たせている、こどもの親同士でも温度差がある現実。主学4年の娘さんが自主的に書き出した放射能ノート。10歳のこどもにこんな思いをさせているのだ!
超党派のこうした取り組みは今回がはじめてだそうで、ぜひ引き続きやってほしい。なにしろ、今は戦時下なのだから。