June 16, 2015

徳島、高知で「福島の祈り」

14日、高知の弁天座は江戸時代風の芝居小屋で桟敷や花道もありとてもいい雰囲気。小雨の中、90人近く来てくれました。講談中にすすり泣く声、終了後は「避難指示が出た為に救助されなかった方々がいたなんて、知らなかった〜」の感想がたくさん。打ち上げでは、福島から5年目の来年には私の他の作品「チェルノブイリの祈り」米軍ジェット機墜落「哀しみの母子像」など連続公演!?の話で盛り上がり…ぜひ実現して欲しいです!それにしても打ち上げの「鰹の塩たたき」美味しかった事(涙)高知の皆さん、来年もぜひ!ありがとうございました。


13日、朝早く起きて徳島へ。原発震災の翌年から郡山の子どもたちと母親たち30人を保養に迎える「ふくしまから徳島へ、こどもふれあい事業」、今年も実行してくれます。福島県内で仕事の時など、徳島で保養に行き大変お世話になったと私にお礼を言う方もいるのは、徳島と郡山を繋ぐ役割をさせてもらったから、そのことを徳島の皆さんが伝えてくれたから。流石に4年目にもなると寄付金が減ってしまったため、紹介者の私の講談で寄付金をあつめようという「チャリティー講談、福島の祈り」を徳島県教育会館で開催され300人もの皆様が集まって、講談に聞き入ってくださいました。講談の前にはこどもたちが徳島の川や山で思いっきり遊んでいる様子のDVDが流され、はしゃぐ子どもたちとは対称的に当たり前の自然を失ってしまった福島の悲劇が浮き立ちます。だから絶対再稼働はだめ!これ以上うつくしい国土を失ってはだめ!
徳島の皆様、今夏もふくしまっ子をよろしくお願いします。

朝日新聞徳島版の記事です。


June 10, 2015

父の旅立ち

 父江尻恭平は今月2日早朝に亡くなりました。
享年88歳。膵臓がんでした。年に不足はありませんがやはり一日でも長生きして欲しかったです。私の仕事を見守るかのように、5月31日のNPOの年一度の総会まで生きててくれ、明日からの四国ツアーの前の週末に葬儀と、まるで私の都合を図ってくれたかのように父は旅立ちました。
父はたびたび私の本に登場してます。拙著「花も嵐も語ります」の中「チェルノブイリ原発事故の後、『福島の原発で事故がおきたらどうするの?』と言う私の問いかけにしばし腕組みをしていた父、『その日の風向きしだいだっぺな〜』」の父です。
昨年出版した「311後を生き抜く語口を持て」では「福島で原発事故が起きてしまった直後『お前や佐藤栄佐久さんの言った通りになった。皆、しまったと思っているのだから大きな顔してはダメだぞ』と私を諭した、父です。

 2日に帰って葬儀の準備、驚いたのは通常なら葬祭場は比較的空いている時期と思いましたが、仮設住宅で亡くなる方も多く、どこも順番待ち。は4日間待ち6日通夜、7日告別式、天気もよく無事に見送る事ができました。
家族を代表して私が「お別れのことば」をまかされ弔問客の接待を家族に頼み、お通夜の前日に近所の公園の駐車場の車の中で原稿書き。書いている途中、これまでこらえていたものがこみ上げて顔中ぐちゃぐちゃ。
その「お別れの言葉」、よろしければ聞いてください。

「お父さん、どうしてそんなに急いで黄泉の国へ旅立たれたのですか?
今年1月に母が入院したときは一ヶ月間毎日お見舞いに行き、退院後は自分が面倒みるからといってたのに。
4月に体調を崩して検査入院、わずか一ヶ月半後に亡くなってしまうなんて、残されたものたちは狐につままれたような気持ちですよ。
この4日間、家でやすらかに横たわるおとうさんに、母が「じいちゃんがそこにいるのにしゃべってくれない。じいちゃんともうお話しできない」と小声でつぶやいてます。私たちこどもや、都会からかけつけた孫たちも、大好きなおじいちゃんが亡くなったなんてまだ現実のこととは思えなくて戸惑っています。
私がお父さんに最後にあったのは5月29日。「また来るからね」と手を握ったら「おお」と手を握り返してくれたのが最後となってしまいましたね。急変したら電話してと弟に頼んだものの、弟が病院から呼び出されたのは2日の深夜12時半、朝には眠るように息をしなくなったお父さん。実家へかえるたびに、明るく朗らかな声で「おおきたか」と出迎えてくれたあの笑顔にもうあえないなんて、大好きなお酒を一緒に酌み貸さすことができないなんて、寂しすぎます。
兄弟4人の中で一番心配や迷惑をかけた私、もっともっとお見舞いにいきたかったし、お話ししたかったし、せめて介護させてほしかった。
子供の頃からの思い出が走馬灯のように思い出されます。
お父さんは昔っから農作業が大好きで、私たちもついていっては土と戯れていました。それはそれは楽しそうに歌を歌いながら鍬をふるっていたお父さん、歌は「泣くな小鳩よ〜」がお気にいりでしたね。
おとうさんはこどもや動物が大好きでした。私が5歳ぐらいのとき、飼っていた子犬が肥だめにおちておぼれかけたことがありました、お父さんは太ももまで届く長靴をはき、中に入って肥柄杓で子犬をすくいあげ井戸水できれいに洗ってくれ「これで大丈夫だ」とにっこり。幼い頃の一番の思い出です。
また、弟広志が4歳のころ、家の前で当時の三輪車、ダットサンと接触したことがありましたね、私が事故を知らせたとたん、道路にむかって走っていったあの顔色は今もまぶたに焼き付いてます。瞬間に血のけが引き、真っ白になったからです。こどもこころに顔色が変わるってこういうことなんだと驚いたものでした。こどもたちを命がけでまもり育ててくれました。
長じて私の結婚生活がうまくいかなくなったときは「大きな家に嫁いでも小さくなっていたんじゃつまんないぞ。自分のやりたいことをやれ」と背中を押してくれましたね。思い切って幼い娘たちといわきへもどったのは今から20年前のこと。講談を覚えるために人前で語りたいと押し掛け、ふたりに何度聞いてもらったことか。忙しくても気持ちよく仕事の手を休めて聞いてくれましたね。つっかえても「うまい面白い」と目をほそめてくれそれがどれほど励みになったか。
その後子どもの進学で東京へ移るまでの9年間、私は県内各地、仕事で呼んでいただき、県民の皆様の優しさにふれ、福島のよさを再発見することができたのです。今、ふるさとは原発震災により難儀していますが、NPOを立ち上げたり講談を作ったりして福島支援の活動をさせてもらっているのも、あの時のお父さんの後押しのおかげです。
そういえば震災後、水道が止まり一ヶ月間お風呂に入れなくなったとき見舞いの電話をしたら「おれらは戦争体験してっから風呂ぐらい入れなくても何でもねえ」と逆にはげまされましたっけ。余震で首都圏が揺れたときは電話をくれて「大丈夫か」「そっちこそ」というと「こっちは地震の本場だ、慣れてっから大丈夫」と冗談をいいながら答えてくれたものです。
いつも相手の立場で考え、ものをいうひとでした。それか幼いものに対しても同じでしたね。
9人の孫たちには格別の愛情を注ぎ、一人一人の長所をほめまくり「あの子はたいしたもんだ」と心から感心している様子でうなずいている姿が目に焼き付いています。皆さんが大好きだったおじいちゃんは、天国から皆さんを見守ってくれてますから安心してください。
私たち一家が東京へ移る前の4年間。3世代同居、10人家族となり、毎朝、5人の小学生のこどもたちの「いってきます」に「おお、気つけていってこいよ」と一人一人に答えていた頃がおじいちゃんにとっては至福の時期だったと思います。
今度は残された孫や私たちがお父さんを、恭平おじいちゃんを見送る番です、おじいちゃん、ご先祖様たちが待っている天国へ、極楽浄土へ、気をつけて行ってください。その道は私たちの残された家族が、祈りをささげ光をあてて輝かせます。そして天国から、極楽浄土の彼方から、またあるときは草葉の陰から私たちを見守り続けてください。どうか、安らかにおやすみください。」
ご静聴、ありがとうございました。仕事を応援してくれた父に報いる為にも
これからもふんばります。





June 01, 2015

岐阜県母親大会、年に一度のNPO総会

31(日)当会の年一度の総会とイベント。今回は四倉の猪狩弘之さんに来てもらう。後半のシンポジウムでは武藤類子さんにも登壇してもらった。
猪狩さんの静かな語り口からほとばしる激しい怒り。アンケートからも参加者の皆さんがいかに心打たれたかが伺えます。
アンケートをご紹介。・猪狩さんの講演は多岐にわたり、怒りも伝わってきた。
・猪狩さんのお話は現地のスタディツアーに参加してお聞きしましたが、改めて原発事故の影響、被害の実態、東電の事故対応の無責任さなど、良く理解できました。感想は「怒り」です。この事故は「怒り」を持って受け止め「怒り」をもとに原発相稼働に反対しなくてはいけないと実感しました。
・大変良かった。猪狩さんのお話はYOU TUBEに載せるべきです。パワーポイントの資料だけでもHPに載せても有効。
・福島の現状をこれからも知っていく必要を強く感じ、自分のできる行動をこれからもやっていきたいと思った。
・マスコミが必死に「原発事故」を風化させようとしていることがショックです。私はもっと「知ろう」としなければならないと思いました。
・福島の現実を知るたびに、ため息しか出ません。しかしながら、諦めません!の気持ちが新たになりました。
・猪狩さんの応援、大変良かった。3・11以降、自分なりにいろいろ勉強しているつもりだが、初めて知らされたこともたくさんあった。言葉の一言ひと言に知性と人柄のやさしさと力強さを感じた。
・活動報告、会計報告、2015年度の事業計画などを総会できちんと話し合う、発表するなど、しっかりした組織なのだな〜と思いました。
・猪狩さんのお話は、同じ被災地を伝える者として参考になりました。
・多彩な活動をされて、避難者の私としては、非常に心強く感じました。
・参考になりました。
・原発事故の非情さを改めて怒りを感じました。対政府、対企業、対マスコミに闘い続けましょう。
・大変勉強になりました。福島の人たちがより良い生活を取り戻すために、少しでもできることを続けたいと思います。
・猪狩さんの話、現地の話がよく分かりました。非常に詳しい話が有益でした。また、武藤さんの話で勝俣会長が福島に来ていないのは許せないし、初めて知りました。
29(金)いわき労災病院に入院中の父を見舞う。寝ていたが気配で起きてくれて、少し話す。入れ歯をはずしているから話しにくそうだ。点滴の管は太もも、すっかりやせてしまって…。帰り際に手を握ると握り返してくれた。31日のイベントが終わったらすぐにまた来ようと思いながら病室を後にした。
月24(日)岐阜県可児市の母親大会で「福島の祈り」を。なんと800人もの参加で盛り上がりました。FBでの岡崎さんのコメントをご紹介。「各分科会の後、神田香織さんの「福島の祈り」の講談で、涙が止まりませんでした。大きな感動を与えて、サイン会に行ったら、コットンしか無くて、本とサインは戴けませんでした。とても残念でした」主催者の方がもっと多く頼むんだった、計算ミスだったと(笑)ありがたいことです。