April 30, 2012

「いわき発安寿と厨子王」

29日、朝早く出発していわき暮らしの伝承館へ。なんとも雅な女性3人による書道、布絵、華道の展示会「和三楽」。テーマは地元に残る伝説「安寿と厨子王」。これにきょうは私も加わり、和芸(話芸)の講談「いわき発安寿と厨子王物語」を入れて「和四楽」(笑)作春開催の予定が震災のため、今年の開催となった。昨年暮れ、植田で佐藤栄佐久さんの講演会があり、たまたま帰省していてこれに出席。その場で華道の渡辺さんにぜひ!と依頼された仕事だ。


17年前、いわきに住んでいたとき、地元の人たちと作るあげたこの作品がふたたびスポットライトが当たるとは。1000年も前のいわきや福島のうつくしい情景が描かれていてうっとりするぐらい。
今やいわきの海からは魚は捕れないし、安寿たちの母親の出身地、渡利は…。
悪人に追われて故郷から逃げ出す安寿たち。いまは放射能から逃れるため故郷を後にせざるをえない県民たち。
入り口のホールでの公演、立ち見が出るほどお客様が来てくれ、古里にこんな歴史があると知ってもらい、激励になったような気がする。今後は前後にわけて高座でもかけようと思う。

帰りは川内村に寄る。つい先日かわうちの湯が再開されていると知り、入浴したかったのだがあいにくお休みでした。線量は0.3ぐらいあり、除染作業の人達しか見かけず、果たして帰村しても生活が出来るのか…。桜が満開でのどかな山村の景色、ため息が出ました。「裸のフクシマ」を書いたたくきよしみつさんはどのあたりに住んでいたのだろう?



除染後の土がこんなところに置かれていて、心配…。

April 26, 2012

チェルノブイリ原発事故から26年目

きょうはチェルノブイリ原発事故から26年目だ。
23日いわき市でベラルーシのベーラ・ルソーバ、小児科医、バレンチーナ・モロゾーバ、元教師の二人から事故直後から今日までの報告を聞いた。
おふたりが住んでいる場所はチェルノブイリから250キロ離れているが、3分の1が飯舘村ぐらいの汚染。
5年間暮らしたが除染しても線量が下がらず、それから移住をはじめたそうだ。

バレンチーナさん
きょう避難区域に入り話を聞いた、帰りたい人に気持ちが良くわかる。
チェルノブイリの事故は数日間知らなかった。季節がいいので屋外にいた。事故を知ってまずは子供のことを考えた。
5月に子供達を避難させようとなった.親たちを説得、サナトリウムに避難。国地域の自治体がどうするか考えている間、避難させた。
避難は86年から今も続いている。
最初は年に2回、今は年に1回。事故後地域の教育関係者の学習がはじまる。
放射能から身を守る授業が始まり、それは今でも続いている。
親を説得するのも教師の仕事。農作業の手伝いがあっても年に2回サナトリウムの必要を訴える。
親には線量を量るよう、指示する。
日本でも同じような取り組みがあると知った。
汚染の高いところは制服を2着、学校にきてから着替える。
事故後4年間国が除染したが、ある地域では効果なし、移住をはじめる。
もちろん、引越しは自由。
自分も移住で悩んだ。6・8歳の子供がいた。故郷を捨てる困難と待っている困難を比べて残ることにした。
できるだけ、被曝をしないよう、気をつけ、私たちはその地で生きて行くことにした。
一番大変なのは未来に対する不安。
今では線量が下がったので測らないが、森のもの、川魚などは今でも測っている。
年に2回の検診。チェルノブイリとフクシマを2度と繰り返さないように。

ベーラ・ルソーバさん
最初に住民からのメッセージを読み上げる。
「今回の事故、津波の被害に心を痛めています。26年も汚染地区で生活しています。健康と無事をお祈りします」

5月から避難が始まった。秋には小児科医、内分泌医などのミンスクやモスクワの医師団がやって来て
エコー検査、ホールボディカウンターなどを開始。
健康被害のある子供が出てきた。州の病院に送られ精密検査。
事故後、調査委員会が作られた。その委員会で避難、除染など様々なことが決定された。4年ごとに被害結果をまとめる様になった。
ゴメリ州など、放射線病院が開設。(ここは私も7年前に訪ねている)
被曝した人たちが登録され追跡調査。地域の汚染度。食物の汚染度調べる。
25年後汚染は減少、この5年間、子供の内部被曝はなし。
とにかく食品に気をつける。
マキの線量も量る。野生動物の肉も井戸水、水道水も量る。
当初と比較すると10分の一に減っている。
ほとんどの食べ物の75パーセントが基準値。

甲状腺の病気は事故後増加した。事故後2・3時間後にヨー素を飲むことがなかった。
日本人は普段からヨー素をとっているが、自分たちはもともと食べ物にヨー素が少ない。ミルク、パン、塩などにヨードを足したものが販売されている。
まずしい家も多いから。ビタミンを渡している。
できるだけ、放射線を体外へ出すため子供達の保養も行われていた。
有給休暇の延長、給料の増加。子供の医薬品がただ。幼稚園費や、小学校の給食が無料など国からの保証がある。
実は自分がすむ地区の母親たちといわきが事故後から関係している。
いわきの家庭が夏の間、子供を受け入れてくれた。

最初の1・2年は妊婦が悩み、妊娠の最初の頃の検査をする。胎児が障害をもっていると中絶。事故後2.3年は精神的なストレスから神経、心臓系でなくなる人が増えた。
放射能と関連した、皮膚、肺、膀胱がんが増加した。

お二人の話を聞いて、いまからでも遅くないから政府は瓦礫の処理、食物の取り方など謙虚に学ぶべきだと確信する。福島原発事故の未来がここにあるのだから。

最後に、大熊町の人からの質問。「事故後山梨へ避難。福島からきたというだけで子供がいじめられた。近所付き合いをたたれた。
ベラルーシでも偏見はあったのか?」

ベーラ・ルソーバさん
「大熊町は様々な汚染がある。自分たちが移住するかしないか悩んだ同じような数字だ。汚染地区の子どもは同じような目にあった。
握手をさけられたりした。子供達は「チェルノブイリのハリネズミ」と言われた。
大切なのは希望を失わずに正しい知識を与えること」との答え。

そのベラルーシでは原発を建設中、国民投票で決定したのだ。経済が支配する現実があると首をすくめるベーラさん。
我が国はそうはさせない!と決意を新たにした一日でした。




April 25, 2012

船橋市から南会津へ

22日午前は下郷町で「フラガール物語」を。南会津は大変線量が低くて0,08ぐらい。はっきり言って東京より低いぐらい。福島県というくくりのため、昨年は大内宿の観光客が減ってしまったとか、これが本当の風評です。
でも今は戻っていて、寒風の中、私も散歩。夕方は坂下町の光照寺で一席。和田和尚は昔から反戦平和、脱原発を唱え、また素晴らしい絵や言葉で表現されている。終了後、町議の千葉さん宅へ民泊。見事な馬刺で歓迎会を開催してくれ、和田和尚も駆けつけてくれました。坂下町はちょいと線量が高いらしい…、千葉町議の悩みは線量の高い松戸に住んでいる息子夫婦を呼びたいが、千葉から福島県へ「避難」というのもおかしなものと(苦笑)



 
 21日の宮本公民館での「チェルノブイリの祈り」の後、4時間半かけて下郷町へ移動。宿へついたらお客さんからfacebookに上田さんから面白い報告が。以下引用。「チェルノ・・」後の”某講師の講演、ひどかった!時間が短かった性もあるが、まるで某医科大学の副学長Y氏の言うような内容に聞こえた。講演後、聴衆の一人が立ち上がり「そんな話を聞きに来たのではない、それじゃあ、まるで講談に託した神田さんの思いを踏みにじることになる。」と怒りの声。会場からも拍手。アタシも質問したが、司会の公民館の担当者(?)曰く「神田さんのお話は”講談”という芸術の分野、原発や放射能の問題は皆さん夫々がご判断されるべきこと」だとか、わけのわからない言い訳をしてた。

 これを読みジ〜ンとなったのは、おとなしい?一般のお客さんがよくぞ、思い切って発言してくれた!その一点です。ほんとにこれからはひとりひとりが発言して変えていかなくては!ですね。「それぞれが判断」公民館さんも思い切った企画で、…狙い通りかも?


April 21, 2012

「福島原発震災」講談スタート

19日の講談サロンで、織福さんが「袴田えん罪講談」をお披露目。袴田さんを陥れようとする刑事たちの演技がリアルで、事件のあらましもよく書かれており、完成度の高さに驚く。今、現在進行形の演目を高座にかける、理想的な講釈師の姿のひとつ、講談サロンをはじめてほんとに良かった〜。
昨夜は大井町きゅりあんで「さよなら原発1000人集会」650人が参加、私は「福島原発震災その壱」を発表。これから随時新たなネタを入れながらすすめていきたい。サロンのメンバー5人が販売を手伝ってくれ「人と文化ネットワーク」のTシャツも沢山売れた。同郷の恵さん、おいしいパンと支援者の花屋さんのお花の差し入れ、ありがとうございます。橋本美香さん落合恵子さんも「香織さんのお客さんからいただいちゃっていいの?」(笑)
落合さんの最後のセリフ。私が講談で引用した武藤類子さんの名文「静かに怒りをもやす東北の鬼です」を「私は激しく怒りを燃やす関東の鬼ばばあになります。この髪型それっぽいでしょ」落合さん、相変わらずかっこいいです!
主催者のみなさま、お疲れさまでした。


さあ、きょうはこれから船橋市宮本公民館での「チェルノブイリの祈り」公演へ。いざ、出発!


April 13, 2012

いわき市議佐藤和良さんと

花曇りの奥山茶屋でよもぎ団子と昆布茶で一服。久しぶりに織音と一緒に出演した浅草木馬亭講談会の帰り、トリの貞心先生にゴチになりました。

 その足でシビックセンターのスカイホールへ。いわき市議佐藤和良さんと新潟の矢部忠夫さんの「東電原発犯罪」出版記念講演会へ。一年前の4月3日、総評会館で現地報告し、今回はそれから一年の報告となった。
感性豊かな佐藤さんの話はいつも分かりやすい。(一言で言って故郷喪失、特に双葉8町村は地域、コミュニティー、生業、人間関係が壊滅状態。すでに県民15万人以上がちりじりとなり、避難する人は後をたたない。汚染地域にとどまることの困難さをひしひしと感じている。進学校磐城高校の受験者数が減り、入りやすくなった。昨日話した商店主は「復興といっても人材がいなくなる、後3年で見極める」といった。また、いわきには立地町村から3万人近い避難者がいて、田んぼを潰して仮設住宅を造っている。
「仮の町」構想は変だ。帰還が前提だから。新たな区割りをしているのは推進してきた町長や国、東電。仮中間貯蔵施設の話も持ち上がっているし、また、4号機がいつ崩落するか…人々はもはや帰るつもりはなく、買い上げてほしいと願っている。
実害、風評のみならず結婚差別が始まっていて、彼の知るところでは4件破談になった。しいたけ、たけのこなど一次産業が壊滅。
いわき市内に市民測定室、ホールボディカウンターを立ち上げ調べている、体内被曝量が累積している現実がある。一年以上汚染水が海洋へ流出し続けているから太平洋全体を汚染している。そして、マスコミ、国は「深刻さを忘れさせよう」としている。国民も「深刻さを忘れたがっている」そして県民も。しかし、想像力を働かせば今後どうなるか分かるはずだ)
佐藤さんの話に、「放射能なんで大したことない」といった先日の父と言葉を思い出した。
折しもきょう、北朝鮮ミサイル騒ぎの陰で、政府は大井原発再稼働を決定。まったく、絶望が口をあけて待っているような現実だが、佐藤さんは一歩ずつ進んでいく。
今後は、市民測定室を充実させ、被爆者援護法の制定させ、「フクシマ原発告訴団」を結成し国を告訴する予定。お〜し、どこまでもついていくべ、応援すっぺ!