June 30, 2011

第5回講談サロン発表会

第5回目講談サロン発表会。きょうもすごい暑さ。今回は新人中心で、4人が出演、みなさん、本番に強い!?落ち着いてそれぞれの個性発揮、また先輩たちも、自由なひきごとやちょいと間違えても臨機応変にかわして、余裕が感じられました。発表会ではじめて映像に挑戦、我が故郷いわき被災地訪問の映像を見てもらいました。打ち上げでお客さんが「サロン初回の発表会と比べるとなんとまあ、新人の上手いこと!!」

今月は忙しい月でした。
週末に子ども劇場企画会議の旅が入ったのでなおさら休みもなく移動しました。
本来ならたのしい仕事、もちろん楽しくこなしているが、年中頭から離れないのは原発事故のこと、この後においても原発を動かすという狂気、国民をモルモットにする政府、加害企業がボーナスを出し、被害者は扇風機も買えない。この国の仕組みがはっきり分かってしまい、眠れない毎日。おかげでお酒を飲んで寝るようになり、疲れが翌日に残ったりと、今後生活上で工夫をしなけらばと反省した6月でした。みなさんも、御身大切に!

June 27, 2011

講談たっぷり会

琴梅先生が4年前から開催されている東京ファミリークラブ「たっぷり会」に呼んでもらい、「フラガール物語り」の前半をかける。なんとハワイアンセンターオープンに招待されたというお客さんが、オープンの日のフラガールの写真をプレゼントしてくれた。映画の主人公のモデル小野恵美子さんのかわいいこと!!宝物になりますわ。
終了後は今月二つ目に昇進した銀冶さんのお祝いということで、浅草でどじょうをご馳走に。琴梅先生、ご馳走さまでした。写真は銀冶さん、きゃ、かわいい


June 24, 2011

猛暑の中、歩きました!

子ども劇場おやこ劇場首都圏連絡会、企画会議に。すごい暑さ、なんでも39度のところもあった。オリンピック記念センターは節電のためかほとんどクーラーなし。終了後、郡司さんと待ち合わせの広尾のJICAいわき物産展、ピーピルの吉田さんから「がんばっぺいわき」布バックを買う。古着のリサイクルで手触りもいい。その後、飯田橋へ移動し「闘争団感謝のつどい」とよく動いた一日でした。ふ〜〜。
闘争団の皆さん、24年間本当〜にお疲れさまでした!!



June 23, 2011

19日の被災地取材、アップ

8時半にでて宮城県は亘理へ。


亘理の海岸線はほとんど壊滅。コンビニも鉄骨だけ。昔泥沼だった?「南泥沼駅」。地名は正直、大地にぽつんと車両が。ほとんど撤去されて建物がない道路をどこまでも。山元町の行き止まりは静かな海岸だ、少し小高い崖の立派な家。増築した部分が持って行かれたようで布団や茶碗がまるみえ。きっと避難所で生活されているのでしょうか。福島県新地へ入ると、線量計は0,08で東京より低い。
 南相馬の原発20キロ立ち入り禁止でも線量は低い。松川浦は先月とほとんど変わらず、6号線の舟々もそのままだ。飯舘村の役場はピカピカ、新しくてとてもおしゃれな建物。ボランティアの方と話す。来週の月曜から引っ越すとのこと。爆発直後に長崎大の山下教授が来て「、マスク何なしなくても大丈夫」と。村人が安堵して普通の生活をしていた2ヶ月後、「明日避難します」といわれたとか、どれほど驚いたことか!怒りが込み上げる。放射能物質が雪で落ちた斜面を走る。どんどん線量は上がって行き車のなかでも14、外の側溝で計ったらなんと83!!目眩がした。赤宇木は外で30、車中で11もあった。
 抜群の新緑の景色をながめ、自然の景観に感謝し、深呼吸したくなるような景色なのに!飯館から浪江に399号でむかう。もちろん浪江の入り口で追い返された。ジェイビレッジの入り口で神奈川県警の若者に挨拶。写真を撮っている人がいたら声かけることになっているのだそうだ。ここは線量は低い。いわき市に入った。久之浜、四倉、豊間、薄磯、ほとんど手つかずそのまま、一体いつになったら復興できるのだろうか…。

豊間の灯台の前のひばり像。まもなく23回忌だ。「ひばりさんが生きていたら被災地激励のため、奮闘したでしょうね」と大ファンの佳世さん、織福さんすっかりその気になっていました。我が家へ顔を出すも、両親は留守。やけに庭がひろくなったな〜と思ったら、隣の家が更地になっていた。嗚呼!

June 18, 2011

宮城県の被災地取材

 震災から100日の今日、4人で朝7時に合流し、宮城県へ。高速料金1000円割引の最後の土日ということもあってか結構走っている。
 石巻に降りたとたん、魚と生ゴミのまざったようか匂いがした。この匂いは現地へ来なければ分からないと、ほこり舞う道をはしってまずは女川へ向かう。
家々はまだ壊れたままだ、やっと手をつけだしたという段階か。ちょっとした湾の違いなのだろうか。海沿いの集落は被害にあっているところと無事なところがある。

 
 女川港は映像でなんどもみている津波襲来の場所だ。24歳の女性が津波放送をしていて海にさらわれた役場、ビルが基礎からひっくり返っている。ビルの中の駐車場に収まっている車もそのままだ。「健康食品100歳迄生きる」の看板がなんともむなしい。

 引き返して辺見庸の出身地石巻へ。彼の出た小学校は焼けただれていた。漁港にある沢山の加工場は波がぬけていき、見る影もない。小名浜港とは規模が違う広さ。魚の腐敗臭で鼻が曲がりそうだ。休息しているのかうみねこが数百羽、壮観だ。



 石巻漁港のすぐそばに住宅街があったのだから、つい先頃迄の人々の営みが想像できてなおさらため息がでる。多賀城駅のちかくのビジネスホテルに宿泊。ここも1メートル以上波がきて、水や泥がひくのに2ヶ月もかかったそうだ。ホテルの近くの飲食店は再開したばかりらしくほとんど満席。スナックのようなお店に入ったが中は結構広くて、お刺身も。ほやと鰹をいただく。とても美味しい。カラオケもあり地元の人たちと歌いまくってお話しし、忘れられない一日となりました。