August 30, 2011

天草から知多市へ

21日。
天草国際交流会館ボルトは毎年出演。もう4年も連続です。昨年は天草に原発が!という噂に対抗するぞ〜と「チェルノブイリの祈り」で呼んでもらった。今年は「フラガール物語」。もう、冒頭はお願い。「農民から大地を、漁民から海を、子どもから未来を奪う原発事故から天草を死守して!」と。毎年満席のお客さん、ありがとうございます。
22日。
はじめて牛深へ行った。目の前が海で、町が広がっている。岩手の、宮城の海岸線が目に浮かび、ここも津波に襲われたらひとたまりもないな〜と。津波対策頼みます!笠井さんが東京から天草へ移ったのは路木ダム反対が第一の理由。その路木川の自然プールで子ども達が泳いでいた。たった6キロの長さの自然豊かな生物が棲息する路木川。ダムをつくる正当な理由は何一つないというのが事実。100億ものお金を使って自然を壊そうとする。そのお金を東日本の被災地にと笠井さんたちは思っている。ありがたい。その半分を天草の津波対策にと私。
23日。
主催者が変わって、またまた熊本市国際交流会館で「はだしのゲン」。立ち見がでるほどの大入りで、こちらも主催者のみなさんに感謝。終了後の義援金がなんと7万円以上だったそうな。こちらは主催者が福島市に届けるそうで、有効に使っていただくのを祈るのみです。
26日。
昨日は5時間車にゆられ天草から北九州市へ。新門司港から大阪南港目指してフェリーで一泊。南港から3時間ほどで東海市の文化ホール着。きょうは知多市やまももおやこ劇場で「フラガール物語」。ちょうど一ヶ月前、事前交流会で70人もの会員のみなさんと講談ワークショップで声を出し合ったことを思い出す。楽屋では懐かしい小学生達がおやつを作って待っていてくれた。義援金も1万円ほどカンパして下さり感謝です。みなさん、また、お目にかかりましょう!


August 20, 2011

天草、ねこのふ〜ちゃん

 おだやかで豊な海、一年ぶりの天草は変わらぬ景色で迎えてくれた。放射能に汚染されてしまったわが故郷の海を思うと、天草の自然はどんなことがあっても守ってほしいと祈るような気持ちになった。。笠井さん宅に到着。前日まで3日間大雨だったという天草は、スコールのように時おり降ったりやんだり。その度に洗濯物を入れたりだしたり(笑)
 感動したのは猫のふーちゃんだ。普通猫は遠出しないはずだが、笠井さんと一緒に犬達の散歩にでたところ、陽太郎とはちの後を追って、にゃ〜にゃ〜なきながら自宅から50メートルも離れた車道迄出て来て、猫走りで追いかけて来た。なんといういじらしさ…。人間と犬と猫の愛情家族がここにある。
夜は、新和町の宮南地区のみなさんがBBQで歓迎会を開いて下さった。
 
 17日、4年目の講談会は昨年にひきつづき、田中伸織さんが前座で「鉢の木」を。途中で電源が落ちまっくらになっても動することなく、落ち着いて対応。私は地元いわきの被災地報告から入り「稲むらの火ー浜口梧陵伝」を一席。海に囲まれた天草も津波が来たら被害を受ける。みなさん真剣に聞いて下さった。田中さんのご母堂がお赤飯と筍のきんぴらを差し入れしくださり、笠井さん宅での打ち上げでいただいた。おいしくて食べ過ぎたかも?

 19日は「戦争を語り継ぐ女たちのつどい」主催で「はだしのゲン」公演。会場の熊本市国際交流会館は昨年市の主催で呼んでもらった市民大ホールの向かい側。あの時いわきナンバーの車をみて、係の男性二人が「どこからですか」と聞いて来たのを懐かしく思い出す。今はいわきナンバーは説明する必要がないほど有名になってしまった…。高校生平和大使の佐々木彰子さんの報告を聞く。ジュネーブやアウシュビッツを訪れた話など明るくで口跡もよく、とてもいい感じの佐々木さんでした。終了後、帰ろうとする私に、語り部の勉強をしたい!と、大学に受かって上京したら訪ねてきてくれるそうだ。まずは合格を祈る!


August 12, 2011

6日から10日まで

6日 66回目の広島原爆忌。猛暑の中、中沢啓治さんに会いに渋谷の映画館へいった。相変わらずいたずらっこのような人なつこい笑顔。笑みを絶やさず語る中身は壮絶だ。私が講談で語っている中沢さんの体験の数々。2009年と2010年のインタビュー、途中で脳梗塞を体験し、2010年の映像は口元が違う。今はがん闘病中で広島在中。
埼玉の上安松に住んでいた時、すぐ近所に中沢さんのお宅があり、ジョギングの時は家の前を走ったり、当時幼かった娘をつれてお邪魔したりと、20年前の思い出が甦る。原発震災が起きてしまった今、中沢さんの存在はますます大切になる。どうぞお大事に。

8日
2日間の保育士試験を終えた娘といわき市の実家へ帰省。実家の近くの保育園で働きたかったのに
10科目中科目落とし、落胆している娘。実家の父がいう。「福島は、こどもらはどんどんいなくなって、保育士の仕事もなくなっている。若い人らは仕事がなくて困っているんだ〜」娘を被災地に連れて行く。家の近所のよっとハーバーは立ち入り禁止。景色を見ることもできない。豊間も立ち入り禁止。そこら中で廃墟の解体、撤去の最中だ。4、5、6月と私が見た被災地はもう一般人は入れないのだ。久之浜の町中には入ることができた。被災地の風景は21歳の娘の目にどのように映っただろうか。

10日 昨日の平和宣言で長崎市長が脱原発を明言。当然のことを発言して大きなニュースになるところにこの国の闇がある。広島市長は菅首相が記念式典で原発について語ったことに不満を持っているらしいが、こちらの方が私には不思議だ。原発も原爆も目的は別でも中身は一緒なのだから。昨夜帰省した長女を被災地の久之浜へ。彼女は12日にここでボランティアをする予定だ。更地になった前の家と塀がなくなり松が傾いた我が家をみて驚いていた彼女は、久之浜の様子をしずかに見回していた。こうして短い私のいわき帰省は終わった。さあ、明日は月一回の講談サロンです!(いつもコメントくださる時雨さん、ありがとうございます)


August 04, 2011

釜石、大船渡、気仙沼へ


足をのばして、また訪ねてない被災地、釜石、大船渡、気仙沼を視察することにした。まずは「率先避難者たれ」「てんでんこ」の防災教育がまさに子ども達の命を救った釜石東中学校と鵜住居小学校へ。ほんとにほんとに目の前が海!よくも無事に逃げることができたものだ。
地震発生、中学生達が全員「率先避難者」となり避難所へ走り出す、屋上に避難し、これを見ていたとなりの小学生たち、「お兄さん達が逃げている、ここも危ないかも?」と後について逃げ出す。途中、道を歩いていた年寄りたちも同行し、無事避難所のホームへ。
 居合わせた職員さんに聞いてみたら、ここから、また子ども達は用心して逃げたそうだ。生きた教育はまさに子ども達を生かした!現代版「稲むらの火」だ。

 釜石駅前のビジネスホテルは仮営業を始めていて満室。飲み屋も、チエーン店ではあるが2件再開していた。少し離れた地元の旅館に宿泊、ボランティアの人たちが沢山入浴にきていた。
 2日は小さな漁港にも立ち寄りながら大船渡市、陸前高田市を視察。リアス式海岸の港は被害の程度の差はあるがほとんどどこも被災していた。広田湾に面している陸前高田の街は中心部もほとんど壊滅していて、果たしてここに街を復興して大丈夫なのだろうかと心配になる。海のそばの4階建てのマンション、3回までやられている、なんという高さ!
 気仙沼は被災地が水につかりどぶの匂いがした。でも、中心部は大丈夫で、日常生活がそこにはあった。
以前に宿泊した駅前のホテルも無事だった。魚センターでフカヒレスープやノリなどを買い、帰路についた。被災地は当然だがどこも表情が違う、匂いが違う、空気が違う、ただ被災された方々の静かな祈りは一緒だ。大勢の命を飲み込んだ海は見事な迄に静かで平和でのどかで、眠りをさそうほど。私はその眠りから覚めることができるが、犠牲になられた2万人もの御霊は…。きょうも、同じセリフをつぶやく。生きている私にできることはなんだろうと。合掌。

August 01, 2011

復興はロックとともに!


朝4時前に震度5弱の地震がまたいわき市を襲った7月最後の日、元キャロルのジョニー大倉さんご一行がいわき南部で復興コンサート!5月にお邪魔した南の森体育館。避難所なのでロビーでの開催、実行委員のみなさんは地元のミュージシャン。準備不足で集客が心配というので、私も電話かけまくり。時間になると、避難している皆さんの他にもぞろぞろとお客さんが駆けつけてくれて、矢沢永吉のファンの弟夫婦が来てくれた。

 一部は地元の歌手の登場、いわき滞在中お世話になった竹谷さんもすてきな歌声を聴かせてくれた。さあ、2部、ジョニーさんの登場、一気に盛り上がり、かつての若者達が踊りだす。ジョニーさんも大サービス15曲も歌ってくれ、全員と握手。落ち込みがちな被災地でロックンロールのリズムは間違いなくパワーを与えてくれました。復興はロックとともに!ジョニー大倉さん、バンドのみなさま、ありがとうございました!